豆腐

まだ夏じゃない

血と、体温と、星と。

 ※旧ブログ記事のリサイクル

 

 

ヴァンパイアノイズム (一迅社文庫)

ヴァンパイアノイズム (一迅社文庫)

 

 

 


この文章を綴り始めたのは4月13日の午後11時30分だ。そして、これを書き終えた後、時計の針は0時を廻り、日付は4月14日になっているだろう。4月14日。それはリンカーンが狙撃された日であり、タイタニック号が氷山に衝突した日であり、なにより僕の誕生日だ。今僕は29歳で、あと30分ほどで、30歳になる。突然心臓が止まったり、想像も付かない壊滅的なカタストロフィが起きなければ、ということだけれど。まあ大丈夫だろう。たぶん。大丈夫だよな? 頼むよほんと。


この「ヴァンパイアノイズム」という物語について、ずっと何かを書きたいと思っていた。しかし元来怠け者である僕は、それを先延ばしにしつづけていた。仕事が忙しいとか、疲れが溜まっているからとか、そんなふうに。いい加減に歳を取ると、こんな風に言い訳ばかりを垂れ流すようになるのだ。傍から見ればみっともないことこの上ないだろう。僕だってそう思う。30歳になった自分は、もっとまともな(何をもってしてまともと言うのかはともかく)大人になっていると思ったのだけれど、どうにも人生ってやつはうまくいかない。

結局のところ僕は30年かけて、どこに出しても恥ずかしくない(あるいは恥ずかしい)、何かと真剣に向き合うことが怖くてたまらない、ただの人になってしまったというわけだ。だからこそ今、僕は語ろうと思う。この物語について。この不器用で、たどたどしくも、それでいて、たまらなくいとおしい二人の物語について。今このタイミングを逃せば、また僕は言い訳を重ねてしまうだろうから。



ざっくりとしたあらすじは、高校3年生のソーヤ(文中にどんな漢字を当てられているのかは出てこなかったはずなので、この表記で進める)と、その同級生である萩生という女の子のふたりがなんやかんやするという内容である。ソーヤはどこか達観しているというか、はっきり言えば、諦めが良すぎるきらいがある。そんなソーヤが、萩生という、ひとりの女の子と関わりを持つようになる。そんな話だ。しかし、いわゆるボーイ・ミーツ・ガールものかと言われると、僕は首を傾げてしまう。そこにはよくある柑橘系の爽やかさや、ほろ苦さみたいなものは、あまり見受けられない。それらよりは、もっと切実なものを、僕は感じる。

ソーヤと萩生の出会いについては省く。THA BLUE HERBの歌じゃないけれど、肩と肩がぶつかったから、とか、そんなことだ。萩生はこんなことを言う。「吸血鬼になりたい」と。あなたならどうだろう? 参ったな、面倒くさいことになりそうだな。そんなふうに思うんじゃないかな。僕だってきっとそうだろう。できればこんな、自意識をこじらせたようなひととは、ちょっと距離を置きたいな。そんな風に。
吸血鬼というの存在について僕が知っていることと言えば、血液を好んで吸うとか、日光に弱いらしいとか、それに血を吸われたものもまた吸血鬼と化すらしいとか、ルーマニアあたりでは未だにその伝説が根付いているとか、その程度で、もっと言えば、吸血鬼なんて想像上のものでしかないということくらいだ。

でもソーヤは、そんな萩生に、徐々にコミットしていく。それはただの暇つぶしであったのかもしれないし、あるいは興味本位の冷やかしであったのかもしれない。しかしそうやってソーヤは、ある意味では取り返しのつかないところまでたどり着いてしまう。
だってまともな奴は、豚の血をコップに注いで飲んだりはしないし、あまつさえリストカットの真似事をした女の子の血を舐めとったりはしない(このシーンは妙にエロティックで、やけに記憶に残るのでマジおすすめ)。でもソーヤは、萩生の望むままに、そんなことを実際にやってしまう。あまつさえ、舐めとった萩生の血をおいしいなんて思ってしまう。はたから見れば、どうかしているとしか思えない。ソーヤも、それを許す萩生もだ。しかし、この時点では、まだソーヤは、引き返すことができたはずなのだ。本当の意味で取り返しがつかなくなるのは、この後である。

ここで萩生の願いについて考える。吸血鬼になりたいという、その望みについて。なぜ彼女は、そんな夢想に取り憑かれてしまったのか。
萩生は現在、父親との二人暮らしである。どういうことか。父親以外の血族は、すべて死んでしまっているということだ。自分に近しい者がこの世を去るということが、残された者にどんな影響を及ぼすか。もちろん個人差はあるだろう。しかしだいたいにおいて、それは悲しみと、永遠の不在と、なにより恐怖をもたらす。
村上春樹の小説の一節に、こんな言葉がある。「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」。萩生の場合は、それらを実感する機会が、短い間に、立て続けに起きた。悲しみに暮れる彼女は気づく。死んでしまった彼らにはもちろん、この自分の中にも死は確実に存在していて、やがて自分はそれにとらえられるだろうということに。

死とは何か? それは絶対的な無である。これまで得てきたものや、これから出会うものの一切が失われることだ。その失われるだろうという予感や、失われてしまったという実感さえ感じられなくなるということだ。真冬の貯水池みたいに、そこにはなにもない。なにもない、そんな思いさえも失われてしまう、圧倒的な暗闇。結局のところ、僕たちは、なにひとつ向こうに持っていくことができない。これはメタファではない。ただの事実だ。絶望以外のなにものでもない。

萩生は、実に六年間も、そんな絶望とともに生きてきた。そんな彼女が吸血鬼になることを望んだ理由は何か。人間は想像する生き物である。萩生は死について考えることを止められなくなっていた。生きている限り、人は想像することを止められない。ならば、生きることをやめる? それはすなわち死ぬことだ。しかし今自分を固く縛っているものは死そのものだ。死は恐ろしい。出口はない。ではどうする? 死ななければいい。しかし人間である以上、死からは逃れられない。ならば、と萩生は思う。人間でなくなってしまえば、この身を凍らせる恐怖から解き放たれるのではないか。人間ではなく、かつ死とは無縁な存在。伝承にしか残っていないその存在に、やがて萩生は思い至る。吸血鬼だ。
吸血鬼になりたい。萩生は決して、こじれたナルシシズムから、そんなことを望んだのではない。彼女は切実だった。ただ彼女は、死ぬことについて考えることを止めたかったのだ。


唐突だけれど、ここで僕の話をする。僕は仮死状態で生まれてきた。もちろん自分が半分死んで生まれてきたなんて記憶はない。両親からそう教えられただけだ。だからといって、じゃあ人生を精一杯生きていこうなんて思ったことはなかった。高校3年生までは。そう、ちょうどソーヤと萩生と同じ歳ごろまでは。
そのとき僕は自分の部屋でベッドに腰掛けながら、なんとなくテレビを眺めていた。テレビの中では科学者が、遺伝子についての話をしていた。生命は遺伝子の乗り物であるとか、そういう話だ。僕は、そういうものかね。なんだかつまんねえな。なんて思った。要するに僕の命は、2重螺旋を未来に送り届けるためだけの使い捨てなんだな、なんて(この遺伝子の乗り物云々というのは、そんな話ではないらしいんだけれど、とにかく)。
そこで僕は、死ぬことについて、正確には、死ぬということについて、ぼんやりと考えた。スイッチがパチンと切り替わるみたいに、あっさり死ねたらいいな。あんまり苦しむのは嫌だな。そういえば、死んだらどうなんのかな。なんにもないんだろうな。なんだ、それだけか。そうか。……なにもない? それってどういうことだ?
その瞬間、僕は背骨ドライアイスを詰め込まれたような気持ちになった。それどころか、実際に体が震え始めた。部屋の空気が泥のように重くなり、息ができなくなった。突然のことに混乱しながら、僕は考えだす。
なにもないだって? それはどういうことだ? 無。なにもない。つまりそれは、なにもないっていう自覚さえないってことだ。見ることも聞くことも感じることも考えることもできないんだ。なんだそれは。冗談じゃない。ふざけるな。ようやく僕は気づく。今僕が感じているものは、恐怖だ。それもとんでもなく濃密で救いの無い、圧倒的な絶望だ。誰か助けてくれ。でも声さえ出ない。涙だけがにじみ出てくる。どうか誰か、誰か助けてくれ!!

僕はこの「ヴァンパイアノイズム」を読んで、そんな自分自身の体験を思い出した。どうすればこの分厚いナイフのような冷たい重みから逃れられるか。僕はこの恐怖に、ひとりで向きあわなければならなかった。時間にすれば、それはものの数分であったはずだけれど、ひとまずの答えを出したあと、僕は夕立に降られた後みたいに、びっしょりと冷や汗をかいていた。
その時の僕の答えはこうだ。死んだ後も、こことは別の成り立ちをした世界があるはずだ。要するに、死後の世界というやつがあってもいい、っていうか、あってくれないとマジ困る、というありふれた価値観にすがったのだ。そうすることで僕はなんとか平静を取り戻すことができた。
一応言っておくけれど僕は基本的には無神論者だ。別にきみやあなたやあんたやお前に「マジあの世やべえよ神様すげえ」なんて言うつもりはない。その時の僕には、それが唯一の解に思えたというだけの話だ。おかげさまで今はヘラヘラしながら暮らしてます。何がおかげさまか。


ソーヤの話をしよう。ソーヤもまた、ふとしたことから、萩生が抱えるものにたどり着く。たどり着いてしまう。母や父や同級生、ミステリアスな小野塚や、幼馴染ではあるけれど、どこかで決定的にすれ違ってしまった詩歌も、いずれはこの世を去っていなくなる。そして自分自身も。なによりも誰よりも、こんなことを考えることになってしまった発端である萩生も。それがソーヤにはたまらなく悲しく、恐ろしい。そしてその恐怖が、決定的に萩生とソーヤを結びつけてしまう。しかし、だからこそソーヤと萩生は、誰よりもお互いをかけがえの無い存在として認識する。

作中でふたりは、僕のようにひとまずの答えを出すことはない。ふたりで悩み、怯え、それでもわずかな希望を見出し、物語は終わりを迎える。きっとふたりはこの先も、それぞれの抱えるものについて考えることを止められないのだろう。それはもしかしたら死ぬことよりも悲しいことなのかもしれない。17歳なんていったら、もっと生きることを楽しんでいいはずだ。そりゃあ四六時中遊び呆けていたら、大人はあんまりいい顔しないだろうけれども、高3っつったら、それくらい許されるはずだろう?

ソーヤたちが生きること、死ぬことについて、本当の意味で答えを導き出すことはないだろう。なにしろ、生きるとか死ぬとかについて、たくさんの哲学者たちが挑んできて、結局答えなんて出なかった。そんな難題に、17歳のガキがふたりきりで挑んで、どこに勝ち目があるというのか。
希望があるとすれば、彼らはひとりではないということだ。使い古された言い回しだけれど、すぐそばに誰かの体温があるということが、どれだけ心強いことか。いつかはそれさえも損なわれてしまうけれど、そのぬくもりは今はまだ、確かにそこにある。その温かさを確かめることが、生きているということなのかもしれない。歳を取るにつれて、僕はそんなふうに思うようになった。

僕の父はガンで死に、同級生のひとりは交通事故で死んだ。友達の兄弟もまた事故で他界し、別の友達の妹は大量の薬を服用しこの世を去った。僕にはどうすることもできなかった。ときどき彼らについて考える。かつてはひどく悲しかったけれど、今はそれほどの痛みを感じない。そして、今はいない彼らのことを、今もいとおしく思っていることに気づく。
作中で小野塚がこんなことを言っている。僕たちはお互いを認識することで、はじめて生きていることになる。僕のなかにはあなたの半分が生きている。あなたのなかには僕の半分が生きている。誰かが覚えていれば、完全に死んだことにはならない。
そうであってほしいと僕も思う。僕のかけらのいくつかとともに、彼らは向こうに行ってしまった。そのとき、僕の一部も死んでしまったのだろう。でもそんな彼らのかけらもまた僕の中にあって、まだそれらは僕とともにある。それは焚き火の残り火のように、静かに僕を暖めてくれる。たぶん、記憶もまた、命のかけらのようなものなのだろう。


無責任に歳を重ねた僕からソーヤたちに言葉を贈るとすれば、やはり無責任にこんなことを言うだろう。「大丈夫、わりとなんとかなるぜ」。ほんともう嫌になるくらい無責任だけれど、でも嘘じゃない。
確かに死は恐ろしい。けれど、それに怯えたままではいけない。どうせどこかで向こう側とこっち側を分かつなにかがやってくる。それについて考えないわけにはいかないけれど、それを避けることはできないし、考えたって答えは出ない。もしかしたら答えなんてないのかもしれない。
だからどうか、立ち止まらないでくれ。死ぬのは怖い。僕だってそうだ。でも、すこしずつで構わないから、死よりは生に目を向けてくれ。君たちはもう知っているはずだ。死を間近に感じたときほど、生を愛しく思えるということを。世界が鮮やかに色づき、全てを許せるように感じる、八月の朝焼けみたいなあの瞬間のことを。

いつの日かソーヤと萩生が、そういえばあの頃は、なんて笑い話ができるようになればいいと思う。そうなっても、きっとふたりは、死について考え、心を揺らすことがあるのだろう。でもその時は、お互いが生ける「星」として、寄り添うようにそばにいるだろう。つないだその手からささやかな生の実感を受け取り、また足を踏み出すだろう。だからきっと大丈夫。彼らがひだまりのようなぬくもりを逃さず受け取り、死と生とともに歩んでいく事を、僕は祈っている。


さて、今は4月14日の午前3時29分だ。早く書き終えてしまおうと思っていたけれどなかなか上手くいかないものだ。大切なものについて語るのは、いつも難しい。どれだけ時間を費やしても、まだ足りないんじゃないかって思うから。でもいい加減このへんで止めておこう。


最後に。
ここに記されているのは、30歳になるまで生き延びた僕から、とある少年と少女に向けた、ちょっとしたアドヴァイスのようなものだ。彼らに届くかどうかは分からない。でも黙っていることなんてできなかった。
それは「ヴァンパイアノイズム」という、僕にとってとても大切なものになった物語についての話だ。

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