豆腐

まだ夏じゃない

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村上春樹のデビュー作「風の歌を聴け」で主人公が故郷について語る場面で、車に乗っているときは煙草を吸わない、マッチで火を点け終わるころには街を通りすぎているからだ、というような一節があって、もちろんこれは比喩であって実際にはそんなことはないのだけれど、ぼくが生まれ育って高校生までを過ごした町はその比喩が大げさではないような、下手をすると人口よりも牛の数の方が多いようなドが4つくらいつくオホーツクの田舎で、メインストリートに面しているにもかかわらず、シャッターを下ろしたままの店舗が帰省するたびに増えていくような状態で、そんな滅びゆく町でぼくは高校を卒業するまでの20年弱を過ごしていたわけで、娯楽といえば友達の家で麻雀をするか、ふるさと助成金だかなんだかを使って建てられた無駄に立派な図書館で借りてきた本を読むか(今思えばこれはありがたいことだ)、あとは町で唯一の本屋に設置してあったアーケードゲームをプレイするくらいのものだったが、「なぜ本屋にアーケードゲームが?」と思う人もいるかもしれないので説明すると、その頃はスト2を筆頭とした格闘ゲームブームで、カプコンや今はなきSNKのコンパクトな筐体が本当にいろんなところに設置されていて(SNKは筐体レンタルやメンテナンスを無料で行っていたそうだ)、ぼくは日々100円玉を投入しては誰かと対戦をするわけでもなく、というか筐体のサイズの関係で二人並んでプレイできなかったから、本屋にわずかに入荷したゲーメストマイコンベーシックマガジンで得た情報を頼りに連続技の練習なんかをしていて、振り返るとぼくの青春は本屋とともにあったのかもしれない、と思うのは、そうやってゲームに没頭したり、週刊少年誌を立ち読みしたり、思春期の男子学生らしく一目を気にしながらこっそりとエロ本を買ったり(店のおじさんは何も言わずに売ってくれた。おおらかな時代ではあった。どうでもよいことだが、メガストアとかコミックパソコンパラダイスとか買っていた)といったその本屋での経験はたぶん今のぼくに大きく寄与しているわけで、今現在もその本屋は存在するけれどアーケードゲーム筐体は姿を消しているし、並んでいる本も売れ筋というかハズレのない無難な品揃えになってしまっていて時代の流れというものを感じずにはいられないが、それでもやはりぼくにとってのあの本屋は、決して広いとは言えない店内に、本や文房具やゲームやプラモなんかがみっしりと詰め込まれたような姿として記憶に深く刻まれていて、思い返せばあんな小さな町の小さな本屋なのに品揃えはぼちぼち良かったように思うわけで、しかしこれは決してマイノリティを馬鹿にしたくて言うのでなく単純な疑問として思うのだけれど、なぜあの規模の町の小さな本屋で、サムソンや薔薇族を平積みする必要があったのか、それが今でもまったく分からないままだ。